ご挨拶

     勇 者 の 魂  東森 宏 英霊追悼式にお参りして

 さきの大戦終結のあと、連合国最高司令官としてマッカーサーが来日してから、日本人は思考能力を失ってしまったといわれます。マッカーサーの権限が絶対的である一方、ワシントンの方針が目まぐるしく変わり、日本の体制の混乱を示しているわけでありましょう。ポツダム宣言は「無条件降伏にあらざる戦争終結」でありましたが、昭和20年9月頃には、外務省周辺では無条件降伏の言葉が飛び交っていたといわれます。今は亡き江藤淳氏がその著「占領史録」の中で、占領軍が強力な力をもつようになった原因を三つあげられております。

・第一は占領国がアメリカ単独であったこと。

・第二が、昭和20年10月15日までに、日本本土にあった300万余の陸海軍将兵の復員が完了し、日本国内にある軍事力は米占領軍だけになったこと。

・第三に、米軍による巧妙かつ強力な新聞、雑誌、電波等の検閲制度と思想統制が効果をあげてきたこと。

この三つであります。9月に入り早くも戦犯容疑者に逮捕指令を出しました。

 昭和21年5月3日から極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷されました。戦争は国と国との戦いであり人道に対する罪や平和に対する罪は、国際法上存在していなかったものであります。

 そしてそれをいうならば、広島・長崎への原爆投下、ソ連が停戦のあと満州に侵攻し、一般市民も多数殺害し、60万の邦人を抑留しシベリアで強制労働をさせ、約1割の人達を死亡させた事件は何と説明するのか、との問いに対しては、「本裁判は日本を裁くための法廷であって、連合国を裁く場ではない。」との一言で却下させられたという始末でありました。

 インド代表パル判事は、「東京裁判は勝者の敗者に対する怨念と復讐の儀式である。」と論じたのも当然のことであります。

 昭和殉難者法務死追悼供養碑を守る会では、殉難の方々が自らの死を間近にしてつくられた歌を集め、遺詠集を作られました。

 自らの生の終わりを、而も戦犯という無念やる方なき想いを抱き乍ら、胸のうちを三十一文字に託して作られた歌は、私の杞憂をはるかに越えて神々しい位堂々として澄みわたり、祖国の再建を願い、父母や妻子の行末えを案じた立派なものでございます。

 勿論、多くの方々が無実の罪、戦犯という濡れ衣をきせられたことについては、名を惜しむ日本の武人として当然のこと乍ら強い憤りを吐露しておられます。多くの日本人は、この裁判を勝者の不当な復讐と認識しており、政府も昭和28年に連合国側のいう戦争犯罪人でなく、戦没者として恩給などの支給を行いました。また靖国神社では、多くの軍神とともに祖国に尽くした戦陣の勇者としてその霊を弔い、お祀り申しあげておられます。

 吉田松陰は幕末の著名な志士であり、松下村塾で多くの人材を育てましたが、幕府の掟に背き刑にとらわれ、三十才でその生涯を終えるわけであります。ある時弟子の高杉晋作が、「男子として死をどう考えたらいいのでしょうか。」と教えを請うたのに対し、松陰は次のように答えました。

「死は決して好むべきものではないし、また憎むべきものでもありません。なぜなら肉体は生きていても、心の死んでいる人もいます。逆に肉体は滅んでも、魂が生きている人もいます。しかし心が死んでしまったのでは、生きていても仕方がありません。反対に、魂が残れば肉体は滅びても決して死んだとはいえないでしょう。」

 殉難の方々の魂は、光り輝き脈々として後の世の人達の心のなかに生きていると思います。

 そしてわれわれ生き残ったもの達は、この勇者の心を心として受け継ぎ、更に後の世につないで行かなければなりません。

 これはアメリカ人にも分かってもらいたいことですが、アメリカ人が誇りにしている初代大統領のエイブラハム・リンカーンが南北戦争の最中、1863年に戦争の死者を弔うために、最大の激戦地で行ったスピーチがあります。「ゲイティスバーク・アドレス」です。アメリカの多くの政治家が行ったなかでも、最も感動的なものとされています。そのなかで彼は、「勇敢なる死者の霊を弔うこと、その志をしっかり受け継いでこれら戦没者の死を無駄にしないことが生き残ったわれわれの務めである。」と述べております。

 光り輝く勇者の魂を弔い、しっかりその志を受け継いで後に伝えてゆくことに精進したいと願っております。

ご冥福をお祈りします。


 
  目次へ