戦争犯罪については、第一次大戦終了後の一九一九年(大正八年)一月のパリ平和会議で次のような三十三項目を戦争犯罪と規定し、これには日本政府も参加し調印している。

 然しこれ等の戦争犯罪もその違反者に対しては自国で裁判処罰するのが建前で戦後になって戦勝国が敗戦国の国民を裁くなどという法概念はなかった。

 然るに此度の戦争裁判は、「極東国際軍事裁判所条例」で戦争犯罪を次のように区分し日本及日本国民を裁いたのである。
 (A)平和に対する罪:即ち、宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若くは国際法、条約、協定又は保証に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は実行、若くは前述の諸行為の何れかを達成する為の共通の計画又は共同謀議への参加。
 (B)通例の戦争犯罪:即ち、戦争法規又は戦争慣例の違反
 (C)人道に対する罪:即ち、戦争又は戦時中為される殺戮、殲滅、奴隷的虐使、追放其の他の非人道的行為、若くは政治的又は人種的理由に基づく迫害行為

 即ち、従来規定されていた戦争犯罪をB項通例の戦争犯罪とし、新たにA項平和に対する罪と、C項人道に対する罪を設けたのである。これが今呼称されているA級戦犯、BC級戦犯の由来であるが、C級の場合はナチスドイツのユダヤ人迫害大量虐殺を対象にしたもので日本には該当するものがないため、B級とC級は区分せずBC級としている。

 この規定によって、A級裁判は、昭和三年の満州事変以降大東亜戦争迄を(A)平和に対する罪、即ち侵略戦争なりと断じそれに関わったとして被告二十九名を起訴し東京裁判を一九四六年(昭和二十一年)四月二十九日開廷、約二年余の審理の後、一九四八年十一月七名に絞首刑を宣告、同年十二月二十三日刑を執行している。

 然し、A級裁判は事件発生後に制定した法律で裁いた裁判であるから一般の法概念では成立しない(事後法)。依っていまでは戦勝国が戦敗国を法の名で裁いた報復裁判であると定説化している。即ちA級戦犯は日本敗戦の犠牲となったのである。