今次第二次大戦は、ナチスドイツの一九三九年(昭和十四年)九月のポーランド侵攻と日本の一九四一年(昭和十六年)十二月八日の真珠湾攻撃によって始ったが、連合軍の圧倒的戦力の前に一九四五年(昭和二十年)四月ドイツは降伏、日本は同年八月十五日ポツダム宣言を受諾し降伏、世界大戦は終結を迎えた。
 
 然し世界大戦の残滓として戦争裁判が遣された。
 
 即ちドイツが侵攻した各地で行ったユダヤ人の虐殺や暴虐な行動がきわだつようになると、その亡命者からナチス非難の声が高まり連合軍の間で「戦争犯罪に対する報復を戦争目的のひとつとする」との声明、宣言がしばしば出されるようになり、一九四三年にはドイツを裁判する「連合国戦争犯罪委員会」がロンドンに設置された。
 
 日本に対しても大東亜戦争緒戦の段階の昭和一七年八月二十一日アメリカ大統領ルーズベルトは「侵入者は・・・・・現在抑圧しつゝある国において裁判の法廷に立ちその行為に応えなければならない」と声明し軍事裁判所の設置を明らかにしている。更に昭和十八年十一月カイロに集まった米英中の三国が、「三大同盟国は日本国の侵略を制止し、且之を罰する為今次の戦争を為してあるものなり」(カイロ宣言)と宣言し、昭和十九年には中国重慶に「連合国戦争犯罪委員会極東分科委員会」を設置し、戦争犯罪に関する証拠を冤集し、戦犯リストまで作成した。
 
 こうして連合軍は降伏したドイツ、日本に対し戦争裁判を実施することになったが、日本に対しては降伏の最終条例を明らかにした「ポツダム宣言第一〇項の中で戦争犯罪人を処刑することを明らかにした。
 第一〇項「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルニ非ザルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セルモノヲ含ムイツサイノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」
 
 だが従来の国際感覚では戦争は国家間の主権の争いで、戦争が終結してから戦勝国が敗戦国を裁くなどという概念はなかったから、この宣言をうけても当時の日本政府は対応することが出来ず戦争裁判については暗中模索の状態であった。