BC級裁判はB項の「通例の戦争犯罪」を裁いた裁判で、一九四九年十月の山下泰文大将を裁いた米軍マニラ裁判から一九五一年四月の満州・マヌス島裁判まで五年半にわたって、米、英、蘭、仏、濠、中国(国民政府)、比の連合国七ヶ国、計四十九の法廷で行われている。その結果、戦犯容疑者として逮捕された者は五万五千人を超え、うち五千七百が起訴され、四千三百余人が有罪の判決を受け、九百二十人が刑を執行されている。

 A級戦犯と比べBC級戦犯の数は地域的にもその人数からも圧倒されるがその原因は日本側にもある。即ち日本軍隊では国際法の教育がなく戦争犯罪についての認識がないばかりか、一九四一年に規定された「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の思想が徹底し、敵国人特に俘虜を軽蔑することが強くこの事が俘虜始め占領民の扱いに大きく影響し戦争犯罪を発生させている。

 更に大東亜戦争末期には各占領地始め内地でも衣食住の極限状態が続き、所謂戦争犯罪を多発させたことは否めない。即ち戦争犯罪の発生は、それを問われた個人の責任でなく日本という国家の責任であると伝える。

 又このような戦争犯罪は、連合軍の中にも多発している東南アジアで玉砕したクエゼリン、サイパン、沖縄での米軍の暴行はアメリカの戦記にもくわしい、また戦後容疑者として収容したキャンプでの米、英、濠、蘭、中国兵の虐待行為はすさまじいものがあり、その実相は、スガモプリズンの在所者が編輯した“戦争裁判の実相”に詳しい。又実際の裁判でも連合軍はその判事、検事、弁護士を元日本軍捕虜を任じている。これでは公平な裁判をやれというのが無理であろう。又衆知の事では、米軍の日本都市の無差別爆撃・原子爆弾の投下、ソ連の条約違反・不法抑留は完全な戦争犯罪である。

 之を要するにBC級裁判は日本及び日本人に対する怨恨の報復だったのである。これ以外に何物でもない。

 それだけに戦犯裁判で命を絶たれた人は不憫なのである。長い戦争に生き延びて愈々故郷に帰れる、肉親にも会えるとなったとき不運にも戦犯に指名され命を絶たれるときの心中を想起して欲しい。

 然し彼等は、身の不運を嘆きつつも肉親の安全を気づかい日本の再建と世界の平和を祈念して刑場に散った。

 憶えば今日の日本の平和と反映も彼等、戦犯として刑死、獄死した人々とその遺族の涙によって贖われたのである。日本再建の人柱として散っていったのである。
 吾等戦中派生き残りの有志は、刑死、獄死した戦犯を昭和殉難者として永遠に鎮魂するため、此度聖地高野山奥の院に追悼碑並びに追悼刻銘碑を建立した次第である。